二十一本目;ボランティア〜もう一つの情報社会〜

投稿者: beison0817

【雑感】

筆者金子郁容さんの専攻は情報論、ネットワーク論、非営利組織論。元々、数学とコンピューター、ネットワーク、そしてボランティアの研究という変遷を経る。普通に考えたら、中々想いもつかない経歴、専攻なのかもしれない。そういった影響もあるからか、『ボランティア』という単純明快なタイトルの割には奥深い。(ゆえにまとめづらかった。。。)

人生で、基本的にボランティアには無縁だったが、その言葉自身に違和感を初めて持ったのは、昨年だった

「ボランティアをしたものが、逆に得るものが大きかった…」

「ボランティアは自己満、偽善」

「ボランティアは、一方的に強者が弱者と決めつけ、押しつけている行動」

要するにボランティア活動という言葉には、限定された所でしか使えない窮屈さを感じてしまい、だからこそ、ボランティアの本質的な意味が、間違って伝えられているんじゃないかと疑うようになった。

「ボランティア活動」っていう括りでなくても、「ボランティア的」なことをやっている人は多くいるんじゃないか? となれば、「ボランティア活動」で行われている「ボランティア的」なことはなんなんだ?ボランティアってもっと日々の生活にあるべき言葉じゃないか?…そんな想いを持っていた。

そんなことを思い出しながら読んだこの本によればボランティアは「情報」と関わりがあるらしい。また、ボランティアは、ネットワークを築くらしい。確かに、そんなことは感覚的経験的に共感する。ただそれらを言葉で説明するのに苦労している人は多そうだ。(自分もそうだ)。

【ジブンゴトに考える=相互依存性のタペストリー】

ボランティアとは他人の問題を自分に関連する問題と結びつけ、その問題の改善に向かって、働きかけ、つながりをつけようと行動することであるという。自分に関連する問題とするためには、世界の出来事が自分とつながっているという認識を持つ必要があって、これは「宇宙船地球号」のような言葉に表される共同体的感覚を持つ必要がある。

こうして、従来のように独立と従属を対立させるのではなく、個と個は互いに依存しながら全体を構成しているという社会の捉え方を「相互依存性のタペストリー」と呼んでいる。

【自発性パラドックス】

ボランティアに関わる過程には、主に二つのパターンがあるような気がする。求められていく場合と自ら必要性を感じて動く場合だ。いずれにせよ、そこには一つの問題に対処する上で、ボランティアを行う者の役割が見出される。この役割を見つけることが、ボランティアとして関わる最初のとっかかりだろう。

ところでこのボランティアの活動を行う多くの人が悩むのが、本書で自発性パラドックスと呼ぶ現象。

ボランティアを行った者自身が、自分が何を誰にどこまでどれぐらい支援をしたら良いのかわからなくなり(つまり役割に迷子になる)、相手より立場を弱めてしまう現象を言う。

しかし、ここではこの現象自体をネガティブに捉えず、むしろそうやって自発的に行った活動によって生まれたバルネラブルさ(弱さ、脆さ)が、相互依存的にさせ、相手とつながり合うことを重要にさせると言う。(相互依存のタペストリー)

このつながりが形成されるプロセスを以下のようにまとめている。

ステップ1「まず自分から動く」―結果や評価を気にせず、自分が関わりたいという意志を提示する

ステップ2「評価は相手に委ねる」―働きかける中で、相手自身が自分の意思表示をするのを待つ

ステップ3「相手が動いたら、タイミングよく対応する」―相手もバルネラブルになるタイミングを見て、共に協働する

自分をバルネラブルすることで、徐々に相手もバルネラブルさせる。こうして見ると、意志を表示するとは、同時に弱さを曝け出すことなのかもしれない。弱さを曝け出したところに、役割を見つけるチャンスがある。弱いことの強さ。(ふと思い出したけど、先日読んだ不格好経営の南場さんも弱さを多く曝け出すことに長けていると思う)

※ちなみにステップ2に関連して、東北の復興に関わるRCF復興支援チームの代表理事藤沢烈さんは、支援者の中には自己実現の機会が得られない、あるいはそのための成果を出すことが出来ず、疲れてしまう人がいると指摘している。(http://www.rise-tohoku.jp/tomorrow/2013/07/525/)

【自立生活者】

自立と言えば、自分で収入を得て、日常生活を送るのに人の世話にはならないということを意味するが、重度の身体障害者の場合、完全に自立することはきわめて困難だ。例えば、乙武さんのような車椅子(電動椅子?)生活の障害者は、階段を登らざるを得ない場合は、必ず人の手を借りなければ健常者のように生活できない。では、人の手を借りなければ成らない障害者は、自立していないと言えるのだろうか、という問いをしている。重要なのは、

「自立とは、全て自分でできるということを指すのではなく、自分の生活に関して、可能な範囲で自己決定をするということ」

自己決定にはリスクがある。リスクを冒すことが、自立生活が目指すものそのものである。(結果如何にせよ、自分で選択するという権利が人間性の本質)

だという。本で言う「自立生活者」の一人として、骨形成不全という障害を持ち、電動車椅子で、生活している方を紹介している。この人は、外出時、階段や段差がある場所に行った際に、側を通る人に車椅子を持ってもらうよう頼むことをいつからか気兼ねなくできるようになったという。むしろ自分のバルネラブルさを素直に認め、「今では、いってみれば『やらせてあげる』ってくらいの気持ちよ」とまで述べる。

ここにも弱さを通じて、役割を提供する機能がある。機能と言ってしまうと、機械的だけど、障害者は、障害があることが問題なのではなく、障害を通じて、自分の意志を表明できないことに本当の問題があるのだと感じる。

【ボランティアによる動的情報】

ボランティアの関わり方とは、相手とのやりとりを通じて、相手に対して自分なりの役割を見つけることだ。それは結果や見返りを求めない行為。つまり自分の意志を明確にすることだ。でも具体的に意志を明確にするとはどういうことか。ボランティアと情報の関連は恐らくここにある。意志は、自分ができること、相手ができないこと、など必要なことを情報化して示すことに近い。言ってしまえば、この情報のやりとりがタダで無償なわけだ。情報をやりとりすることは、結果や見返りを求めない。

本書では、情報を静的情報と動的情報とに分けている。前者が、特に変化無く、既にそこにある情報に過ぎないものであるのに対し、動的情報は、他人とのやりとりの中で生まれる新たな価値のことを言う。この動的情報もボランティアのように自発性パラドックスに陥りがちでバルネラブルだ。どういうことかと言うと、意志を表明するなど情報を発信する時点で、批判されたり、反論されたりする。ネット上における炎上という行為がわかりやすいかもしれない。情報もバルネラブルで、でもだからこそ、弱い情報とそれを補える強い情報が結びつき、価値が生まれる。ボランティアも困っている人がいることとそれに対処できる人の情報がマッチングしあって、初めて誇られるような行為が生まれる。

 

【贈与論とボランティアと情報】

このような情報を提供するというやりとりが何かに似ていると思ったら、贈与論だ。贈与論では主に食物などの物物提供の話だったけど、ここではボランティア活動のプロセスで情報が無償でやりとりされている。

近代以前の共同社会で言われるような贈与性を基調とする経済社会システム(物々交換で生活が成り立っていたような自社会)でも、「まず与える」という行動パターンがあって、それが現代にあるようなボランティアのような「まず自分が動く」という行為と似ている。共同社会では、そういうgiveする行為が、人々との信頼を築き、関係を構築し、社会が出来ていた。

もちろん、なんでも無償で贈与すれば良いというわけにはいかないが、今の社会では、こういうボランティア•イン•スピリットでやりとりをするところと見返り(お金とか報酬とか)を求めるところの区別がつかなくなっていて(あるいは考え過ぎていて)、それが人とのつながりが希薄と言われる社会を創りづらい要因となっているところはあるような気がする。

【ボランティア的でボランティアではない復興】

復興という様々な人が関わっているフィールドでも 何を知っているか(=何ができるか)、を示すことが重要だというのは日々痛感する。復興の現場では、行政、企業、NPO、色んな組織が連携している。連携するためには、お互いに何ができるかを知り合うことが必要だ。そういう他の人が知らない情報を知るべき人に伝える第三者的役目を担う人が重要であることも日々実感する。そうやって情報を伝え合う行動は、確かにボランティア的(情報を売買するという行為も確かに企業間ではあるかもしれないけど)なのかもしれない。

ボランティアがバルネラブルを持つように自分の弱みと強みを相手に表示することが他者と共通の目的を達成するための役割を共有し、つながるきっかけとなる。多分、こういう段階に至った時点で、それは単なるボランティア活動(ゴミ拾いとか掃除とか活動そのものを示すこと)ではなく、本書が言うボランティア•イン•スピリット(精神としてのボランティア)によって生まれたもので、多分それは日々の生活のそこかしこに在るべきものだと言える気がする。そういう価値観を持った人が増え、構築される社会が、本書のサブタイトルである「もう一つの情報社会」と呼んでいる。